2009年3月16日月曜日

日本人であるということ

毎週月曜、全校朝会を行う。

日本と違って「校長先生の話」というのはない。

今日見ていて感じたことについて書こうと思う。

朝会の最後に司会の先生(今日はシャオツォンがやった)が子どもたちへシュプレヒコール(エイエイオーみたいな掛声)をするのだが、 その時に言った言葉の一つがたしかこうだった。


「做了不起的中国人!!」

日本語に訳すと「すごい中国人をつくろう(直訳)」つまり「立派な中国人になろう」 といった感じかな。違っていたらごめんなさい

中国らしいなあと思ったけれど、別に否定してるわけじゃなく、日本を考えずにはいられなかった。


日本人は子どもに「立派な人になるんだよ」とは教えるが、決して「立派な日本人になるんだよ」とは言わない。

そんなことをいうと、それこそ国家主義的な危険人物と思われかねない。

何かをするときにも「日本のために」なんていう人は滅多にいない。

そういうせりふを言う人は(選挙のときの)政治家か自衛隊の人、国際的な仕事に従事する人くらいなものだろうし、またはオリンピックのときだけだろう。

その一方で「会社のために」ならば命も家庭もなげうって働く日本人。

実に不思議です・・・


中国・ロシアの共産国に限らず欧米、中東諸国、韓国など、どこの国の人たちを見ていても思うのは国民的アイデンテティがしっかりしているということ。

自分が何者であるかということ、どこの国家の人間であるかということを誇りに思っていると感じる。

国家による情報の管理があるにせよ、多くの中国人は自分の国が本当に素晴らしいと誇っている。

もう、それこそはちきれんばかりに胸を張って生きている。

もちろん技術や便利さ、環境が決して優れていないということは彼ら中国人も承知しているし、政府に対して盲目的に支持しているわけではないが。

でも、 アメリカ人だって、フランス人だってどこの国でもだいたいそうだ。

日本はどうか。 もちろん技術的にも環境的にも恵まれているし「日本が好き」「日本人でよかった」、という人は非常に多いだろう。

自分だって中国へ来て、心からそう思った。

でも、日本に住んでいることじゃなくて、便利さじゃなくて、一人の日本人としての自分を、日本という国家を、胸を張って誇れる人はいったいどれだけいるのだろう。

また、 自分はどうなのだろうか。


「愛国心を育てる」という言葉を教育基本法に入れるかどうかで、もめてしまう日本。

日本人が日本を愛する心をもって何が悪いのか、そして、そんなことを法律に書き込まなければ愛国心を持たせることができないのか。

考えるとなんだか情けないなあと思うが、一方で戦争が与えた「国家主義」に対する拒否反応、そして戦後の日本(とアメリカ)の教育による価値観の刷り込みが国民に与えている影響は計り知れないとも思う。


日本で 愛国心とか国家、国旗というと戦争の影が付きまとう。


でも、それは本当に直結するだろうか。

日本人として、戦争はしない、してはいけないなんてことは当然な感情であるとしても、

自分の国にもっと誇りを持ってもいいんじゃないだろうかと、中国の人たちを見ていると日本にいるとき以上に感じる。


いつの日か 日本人は「すごい日本を作ろう、すごい日本人になろう」 と言うのだろうか。


もちろんこの言葉を教え込むべきだなんて思わないけれど、

でも、自国を認められないと他国を認めることなんてできない、真の国際交流なんてできないだろうと、思うわけです。


そんな今日この頃。

1 件のコメント:

goooooood girl さんのコメント...
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