2009年6月24日水曜日

最終回ですよ

4月に一時帰国しまして、はや2ヶ月がたちました。

今度の私の任地はブータン。


与えられた2年間を価値あるものにするため、


世界の何かに貢献するため、


世界の人々の笑顔と生活と価値観を知るため、


自分が成長していくため、


そして、応援してくれているみなさんの


期待と真心に応えるために


あと10ヶ月を


新たな地で過ごすことに決めました。


どんな出来事と出会いが待っているのか


楽しみです。


気分を変えるためと、このブログが扱いにくいために


今回をもって、中国アラシャン奮闘記は終了し、今後は場所を変えて


活動を紹介していきたいと思います。


ご愛読ありがとうございました。

そして、もしよろしかったら引っ越し先にて今後ともおつきあいください。


タイトルは「それいけブータン」です。

2009年6月22日月曜日

ブータン編







みなさま、お元気でしょうか。
来てます。ブータン。
バンコク経由でドゥルクエアに乗り換え、ブータンのパロ国際空港へ向かいました。
途中バングラディシュのダッカを経由したのに、全然放送を聞いていなかったのでうっかり飛行機を
おりそうになってしまった。あぶないあぶない。
その後、無事出発し、ヒマラヤ山脈を横に眺めながら
着陸態勢に入ると尋常ではない角度と距離で山の間をすりぬけながら降下していく。

おそらく山と主翼との間が100メートルもなかったと思う。
到着すると調整員がお迎えに。
空港から首都ティンプーまでは、およそ1時間半の道のり。
数日前まで豪雨に見舞われていたらしく、途中の高速道路(一応)は作ったばかりにもかかわらず
とんでもない落石で半分つぶれていたり、道路自体が流されて半分崩落したりしていた。

隊員ドミトリー(宿舎)は、はっきり言ってすごい。
何がすごいって、その漫画の数と本の数。懐かしのビデオテープの数。
そして、日本紹介グッズとか活動で使えそうな資料の数が半端じゃない。
日本でたくさん買ったり、用意したりして持ってきたのが無駄だったかも。
ものすごく(特に娯楽が)充実してます。
やっぱり小さい国だと皆でイベントとか協力しやすいからいいなあ。
ここに来てまず目につくのは犬。
野犬。とにかく多いので、夜は怖いです。
しばらく前に野犬狩りを行ったらしく、だいぶ減ったとのことだが、それでもまだまだ多い。
その上彼らは、朝から夕方にかけてはだらしなくその辺で寝ていて、夜になると一斉に吠え合う。
なので、そのうるささといったら犬の鳴き声がいろんな形で夢に出てくるほどです。

ブータンの人たちはほとんどが民族衣装を着て生活している。
女性はキラと呼ばれるものを、男性はゴという衣装を着る。
外国の文化を規制しているブータンでも、最近は様々な文化がどんどん入ってきていて、洋服を着る人が増えてきている。この前はミニスカートの女性がいて、さすがにこれにはインド人もびっくりです。
食事は基本、辛い。
主な野菜はChilli辣子)で、料理の多くにチーズが入っているため、コレステロール値が高い。
今のところ、朝はコーンフレーク、昼は宿舎の下の食堂にてカレーかインスタントラーメン、夜は同じくカレーか自炊でスパゲッティーが基本コース。炭水化物ばっかりです。ビタミン不足。
ブータンといえどもここは首都なので、思いの外便利。アラシャンなんてめじゃありません。
だって、キッコーマンの醤油とか信州そばとか韓国海苔とかパン粉とか売ってるし、日本(っぽい)、中華(っぽい)料理のお店もあるし、韓国、インド、タイ料理、ハンバーガーやピザもいただけるのです。
ここ数年でかなり便利になったらしい。
水や電気が不安定ですが、もうそんなのには慣れっこなので大丈夫。
ああ、そろそろ面倒になってきたので、活動や自宅については次回以降に。
では、ばいなら。

2009年5月13日水曜日

大きな歯

帰国してからしばらくして、突然奥歯のあたりが痛みだしました。

そこは親知らずのあるところで、以前からいつかは抜かなければならない日が訪れるところでした。

どうやらついにそれが頭を出してきて、炎症を起こしていたようです。

歯医者で抜こうと思ったら、

「まず炎症を抑えて、痛みがなくなってからでないと手術できない」と言われ、


「手術を希望するときに事前に電話で予約をしてくださいね」と歯科助手がほほ笑むから


手術の予約をしようとしたらGWのお陰で診療が休みになり、一週間ものびてしまい、


土曜日に予約しようとしたら次の日が日曜だと、
もしもなんかあった時に対応できないからダメだと断られ、


月曜日に予約しようとしたら月曜は混んでいるからだめだと言われ、


じゃあ、最初からダメな日を教えとけよ!!と腹が立ちました。


仕方ないから火曜日に、と言ったけれども、

来月から外国に行くので急いでいるんですと知らせたら一か月くらいしてから痛みだすことが稀にあるから抜かない方がいいと言われました。


この歯を残して世界の秘境に行く方がよっぽど危険なのでほかの歯医者を探すと

大学病院を紹介してくれました。


そこは、当日いきなり押しかけて、

いきなり手術を希望すると月曜日にも関わらずやってくれました。


でも、手術は大変痛いものでした。



最初に麻酔を4、5本打ちました。


びっくりするほど痛かったです。

次に歯茎を切開して、
親知らずが埋まっているのであごの骨を削り、(見ていないけど)


「うんとこしょ、どっこいしょ」ちっとも親知らずは抜けません。


歯が下向きに倒れているので歯を分割して引き抜こうとするんだけど、


「うんとこしょ、どっこいしょ」まだまだ親知らずは抜けません。


しかもとてつもなく痛いのです。


先生は「痛かったら教えてくださいね」と言い、何回か痛いですかと聞いてきたけれど、


教えたところでどうにもならんだろうとしばらく我慢しておりました。


「うんとこしょ、どっこいしょ」 なかなか親知らずは抜けません。

 
でも、あんまり痛いもんだからこらえきれずに


「先生、実はそうとう痛いです」とついに白状すると、


先生は親切なことに、さらに麻酔を3本も打ってくれました。(涙)

その後、先生は必死に私の親知らずをドリルで削り分割し、

パキパキと音を立てながら力いっぱい引っこ抜きました。


「うんとこしょ、どっこいしょ。」それでも、親知らずは抜けません。


歯が割れる音が麻酔の効いた口の中から耳に響いてきて何とも言えぬ気持ち悪さです。


「うんとこしょ、どっこいしょ」 とうとう親知らずは抜けました。


最後に2針縫って終了です。


私はもうあまりの痛さと、一時間の戦いでぜえぜえ息を切らし、汗だくになっていたのでした。


優しい先生は、


私にお疲れ様と言ってタオルをくれました。


まさか歯医者で汗ふきタオルを渡されるとは思いもしませんでした。


しかし、問題は手術が終わってからでした。麻酔が切れると痛みは半端じゃなく、


次の日になるとおたふくの人のようにほっぺたが腫れてしまいましたとさ。





みなさん、歯を大切にね。

2009年5月12日火曜日

報告

こんにちは。


相変わらず宮城に滞在中のワタクシです。


実は、中国から帰ってきたのにはいろいろあったんですが

このたび、任国(活動する国)を変更することになりました。

その国は、



ブータン王国 です。


きっと知らないでしょう。

どんな国かと言うと、半鎖国状態の農業国で、王様が国家元首で、九州と同じくらいの大きさの国。

場所は中国のチベットの南側でヒマラヤ山脈沿い。

標高は2500mくらいから7500mくらいまで。

文明や科学の発達・追及よりも国民が幸せを感じられる国づくりをしていきましょう

という考え方の国です。


そのほか、世界でいちばん料理の辛い国とのうわさも聞きます。

そのほかのことはよく分からないので、行ってからおいおい確かめていきたいと思います。


そんな訳で、6月1日に出国予定です。

今、英語を勉強しています。

思考が中国語になっているので、邪魔です。

2009年4月20日月曜日

日本からこんにちは

日本からこんにちは。



現在、宮城県の妻の実家へきています。



日本にいても、自分がそこにいるという実感が全然持てずなんだかふわふわしています。





それはさておき、こちらは桜がそれなりに残っていて、日本の春は本当にいいなあと感じました。



先日は学校の方へちょっと顔を出してみましたが、一年もたってないのにもう自分がいた場所ではないような、不思議な感じがしました。

でも、懐かしい方々にたくさん会うことができ、うれしくもありました。



今朝は妻と一緒に犬の散歩。



土手を歩くとタンポポの道ができていて感動した。


あと、

こっちのごはん(米)がめちゃくちゃうまい。

郵便や宅配を送るときに検査されない。

接客に笑顔がある。

街にゴミが落ちていない。

こんなちょっとした幸せを、とても尊いものだと感じることができるようになったこと。



中国に行ってたからこそなんだろうなあと振り返りました。

最初で最後の・・・

先日、ついに、授業をしました。

教えたのは2年3組。昨年ずっと国語の授業を受けさせてもらっていたクラスで、子どもたちも慕ってくれているので自分にとって思い入れのつよいところ。

そこに無理を言って授業をさせてもらったのでした。

内容は貼り絵と絵画のミックスしたような作品作り。

貼り絵と言っても簡単なもので、お花紙や折り紙などを切ったり折ったりちぎったり、丸めたりと、いろいろな使い方をして画用紙に貼り付け、

クレヨンなどで絵を足すだけ。

正直言って2年生にはちょっと難しい内容だったんだけど、あのクラスでどうしてもやりたかったもので・・・・どんまい。


というのも、実はいろいろ訳あって


中国での活動を終了して日本に一時帰国することになったからなのです。


美術の先生に帰国を伝えると

「ええっ!まだあなたの授業を一度も見てないのに・・・・残念だわ」
とすごく悔しがってくれた。
なので、時間がなかったけど急きょ手配して急きょ用意。

正直言ってもう時間ないからもういいやっていう気持も半分くらいあったんだけど、

最後だからこそ無理いってもやるべきだろうと思ったわけです。

で、やってみた結果。


まあ、上々です。
子どもたちも食いついてきたし、一番心配だった言葉の問題も特になく、

導入から説明、制作、感想まで一応想定した流れ通りにできました。
もちろん、初めてなので美術の先生にも一緒にいてもらいましたが、指導は全部一人で。
ちなみに、下の写真は授業の合間に行う「目の体操」の様子です。


というわけで、学校へ行く最終日に、中国での最初で最後の授業を行ったわけです。

もっと授業やりたかったなあ
・・・でも、楽しかったなあ。最後に美術教師になれてよかった!!

2009年3月31日火曜日

モンゴル族と日本人の結婚式


先日、アラシャンに住むモンゴル族の友人と日本人女性の結婚式があり、参加してきました。

お互い砂漠緑化活動をしていて仲よくなったのですが、お互い言葉は違い、生活習慣も育ってきた環境も違う。

しかもここ内モンゴルのアラシャンという辺鄙な場所に移り住む、勇気に感服しました。

結婚式に参加するのは2度目ですが、前回は漢族同士だったのでかなりスムーズに進行していた感じでした。

ただ今回は言葉が違うので、日本語と中国語とモンゴル語という3言語を使いながら式が進みました。
モンゴル族の人も皆基本的に中国語は話せるものの新郎の両親など、中国語教育を受けずに育った人たちはほとんど話せない。また、漢族の人はモンゴル語が分からない。
そして、日本から駆けつけた新婦の親族は日本語しか分からないので、3言語が必要というわけ。


この町にはなぜか日本語を話せるモンゴル族が何人もいるので、もちろん通訳をできるのですが。

式ではモンゴル衣装を着た新郎と和服を着た新婦が並んで立っていて、とても不思議な感じがしました。








そして、宴会と言えばやっぱり歌手
今回は馬頭琴奏者の伴奏つきで、歌手が司会も担当しました。












しかし、モンゴル族の人は基本的に自分のペースで物事を進めたがるので、新郎新婦が来


賓とやり取りしていても勝手に進行しようとします。あいさつの言葉なんかもご両人からはなく(最後にはあったかもしれないけど)、司会が自分の言葉に酔っていて、えらく長かった。

で、やっぱり白酒(バイジュウ)。
お椀に二杯。






無理です。一杯だけ頑張って飲み干したけど。



式には、ちょうど植林ツアーに参加していた日本人の団体も参加してもらって、貴重な体験をしてもらいました。
中国では、新郎新婦からの酒を飲んだ後は自由に帰っていいので、お酒の飲めない、そして日本語しか分からない彼らは早めに引き揚げて行きました。

自分も頃合いを見て退散。

料理は羊を3頭ほど潰して丸焼きにし、皆さんに振舞っていました。

きっと苦労は絶えないと思うけれど、




これからの二人の生活が幸せであるように心から願わずにはいられない素敵な式でした。

2009年3月20日金曜日

ついにこの日が来たか

どうも、おばんです。

最近は立札や掲示板を立てるための穴掘りやその他力仕事を担当しているコンビニエンス隊員のわたくしですが何か?

しかし、

ついに

ついに


出会えましたよ。!!

美術の先生に!!!

産休に入っていた噂の人が、帰ってきた~~~~~

校長に美術の先生はどこにいるのって聞くと

「そこだ」と言って話を終わりにされそうだったので、紹介してって頼んだら

ちゃんと紹介してくれました。

約10秒も!


その後、二人でちょいと話をしたら、9ヶ月間だけいた前任ともいろいろ交流していたらしく、お互いに勉強しましょうと言ってくれた。

そして、自分の希望として、とりあえずいろいろ授業を見させてもらって、最初はほかの先生とかにも手伝ってもらいながら、 だんだん自分で授業できるようにしていきたいという話をした。


その後、校長がめずらしく(むしろ初めて?)自分に活動のことを聞いてきてくれたので、先生と話したことを伝えたら


「そうだな、それがいいと思う」って、約20秒も話聞いてくれて、5秒くらい返事してくれた。


いやあ、快挙です。


校長が真面目に話聞いてくれたのはじめてかも・・・


その 二日後、ついに授業を見せてもらえました。

内容的にはどうってことないんだけど、そんなのは関係なくてとにかくどんな授業をして、どうやって指示をするのか、子どもたちの様子は、使っている道具は・・・などなど


まずは、自分が知りたいことを知っていくことが第一歩。


もう一人の美術の先生も一緒に授業を見にきて、その先生は授業見せるのは嫌がるけど「自分の代わりにあなたに授業やってほしい」って言ってたし。


その後、力仕事に回されてしまったので、ここ数日は音沙汰なしだけど・・・・


しかも、後期に入ってから消滅したと思っていた日本語の授業も 来週から毎週水曜に課外活動として再開されるらしい。

まだ、学校側からは何の連絡も受けてないけど、子どもたちが一週間フライングして「授業はないんですか」って聞いてきたから間違いないでしょう。

別に日本語やりたいわけじゃないけど、何もないより活動になるから一応歓迎。


なんか、来てますよ、ビッグウェーブが!!!


乗っとけ乗っとけてな感じで、赴任してから8ヶ月と2日。



やっと、自分の活動のスタート地点に立ちました。


本来なら赴任して最初の週にすることなんだけど・・・・


村落開発普及隊員かと思ってしまうくらいに活動を始めるのに時間がかかり、およそ要請内容とは違うことばかりしてきたわたくしですが、

「日本でも仕事あるなら日本に帰ればいいじゃない」とか言われましたが、

「私たちは自分たちの力でやれるのに何で来たの?」とか言われましたが、

ストレスで頭部にハ〇ができましたが、


もうじき小学校美術教師になれるかもしれません。

2009年3月19日木曜日

卒業おめでとう

今日3月19日は横浜市の小学校の卒業式が行われたはずです。


この一年、子どもたちと離れ、遠くから見守っていようという気持ちでいましたが、

卒業となると、うれしいような、さびしいような気持が湧いてくる。

やっぱり教え子が巣立っていくというのは感慨深いものがあります。


今日までの6年間、学級担任をはじめ、学校の先生方、保護者の皆様、地域の方々、友達、塾や習い事の先生など

本当に多くの人たちに支えられて、今の自分があるのだということを分かってほしい。

あなたたちは、権利も義務もある一人の立派な人間です。


12歳にもなると「自分」というものがだんだんはっきりしてきて、

人にあれこれ言われたりされたりするのがわずらわしくなってきます。


一方で、どんなに大人ぶってもきみたちは所詮まだまだ子どもです。

「自分」があるようでいて、実は周りの人や環境に左右されやすい、「あやふやな自分」です。


大人を軽んじて生意気なことを言ってみたり、反抗してみたりなんていうのも

大人になる過程で、誰もが経験することですが、

ただ一つだけ、守って欲しいことがあります。



尊敬と感謝の気持ちを忘れないこと。



だれでも皆、自分にない何かを持っているものです。

また、あなたもまた、他の人にはない何かを持っています。


必ず。


世の中、自分の思い通りにいくことなんか数えるほどしかない。

自分が好きか嫌いか、それだけで自分の成長の芽を摘み取らないでほしい。

相手を見下すのは、馬鹿にするのは簡単だけど、

でも、あなたの目の前にいるその人は、今までともに過ごしてきたあの人はきっと何か、


自分に、かけがえのない何かを教えてくれる人だということを

どうか忘れないでほしい。

そのために、相手への尊敬と感謝の気持ちが何より大事なのだと思う。

それさえ忘れなければ、自分の行動の何が正しくて何が間違っているかもきっと分かるはず。


自分の未来をどんな風に描いていくのか、それはすべて自分次第。

まだまだ真っ白な大きいキャンバスに、思い切り素敵な自分らしい未来を描いていってくれることを心から願っています。


卒業おめでとう、すみれっ子のみんな。

これからのみんなの活躍を楽しみにして、ずっと応援しています。

2009年3月16日月曜日

日本人であるということ

毎週月曜、全校朝会を行う。

日本と違って「校長先生の話」というのはない。

今日見ていて感じたことについて書こうと思う。

朝会の最後に司会の先生(今日はシャオツォンがやった)が子どもたちへシュプレヒコール(エイエイオーみたいな掛声)をするのだが、 その時に言った言葉の一つがたしかこうだった。


「做了不起的中国人!!」

日本語に訳すと「すごい中国人をつくろう(直訳)」つまり「立派な中国人になろう」 といった感じかな。違っていたらごめんなさい

中国らしいなあと思ったけれど、別に否定してるわけじゃなく、日本を考えずにはいられなかった。


日本人は子どもに「立派な人になるんだよ」とは教えるが、決して「立派な日本人になるんだよ」とは言わない。

そんなことをいうと、それこそ国家主義的な危険人物と思われかねない。

何かをするときにも「日本のために」なんていう人は滅多にいない。

そういうせりふを言う人は(選挙のときの)政治家か自衛隊の人、国際的な仕事に従事する人くらいなものだろうし、またはオリンピックのときだけだろう。

その一方で「会社のために」ならば命も家庭もなげうって働く日本人。

実に不思議です・・・


中国・ロシアの共産国に限らず欧米、中東諸国、韓国など、どこの国の人たちを見ていても思うのは国民的アイデンテティがしっかりしているということ。

自分が何者であるかということ、どこの国家の人間であるかということを誇りに思っていると感じる。

国家による情報の管理があるにせよ、多くの中国人は自分の国が本当に素晴らしいと誇っている。

もう、それこそはちきれんばかりに胸を張って生きている。

もちろん技術や便利さ、環境が決して優れていないということは彼ら中国人も承知しているし、政府に対して盲目的に支持しているわけではないが。

でも、 アメリカ人だって、フランス人だってどこの国でもだいたいそうだ。

日本はどうか。 もちろん技術的にも環境的にも恵まれているし「日本が好き」「日本人でよかった」、という人は非常に多いだろう。

自分だって中国へ来て、心からそう思った。

でも、日本に住んでいることじゃなくて、便利さじゃなくて、一人の日本人としての自分を、日本という国家を、胸を張って誇れる人はいったいどれだけいるのだろう。

また、 自分はどうなのだろうか。


「愛国心を育てる」という言葉を教育基本法に入れるかどうかで、もめてしまう日本。

日本人が日本を愛する心をもって何が悪いのか、そして、そんなことを法律に書き込まなければ愛国心を持たせることができないのか。

考えるとなんだか情けないなあと思うが、一方で戦争が与えた「国家主義」に対する拒否反応、そして戦後の日本(とアメリカ)の教育による価値観の刷り込みが国民に与えている影響は計り知れないとも思う。


日本で 愛国心とか国家、国旗というと戦争の影が付きまとう。


でも、それは本当に直結するだろうか。

日本人として、戦争はしない、してはいけないなんてことは当然な感情であるとしても、

自分の国にもっと誇りを持ってもいいんじゃないだろうかと、中国の人たちを見ていると日本にいるとき以上に感じる。


いつの日か 日本人は「すごい日本を作ろう、すごい日本人になろう」 と言うのだろうか。


もちろんこの言葉を教え込むべきだなんて思わないけれど、

でも、自国を認められないと他国を認めることなんてできない、真の国際交流なんてできないだろうと、思うわけです。


そんな今日この頃。

2009年3月14日土曜日

ぎゃふん

前回の日記にも載せたけど、この間から数日間タクシーがストライキに入っていて、街から車が消えました。

この街を走る車の半数以上がタクシーだし、移動手段はほとんどタクシーだけなので、困ります。

さて、このストライキ、なぜだと思いますか?

実は中国では3月1日から道路交通法?の規則改定があり、シートベルトの着用が義務付けられました。
そして、走行スピードが40キロと制限されたらしいのです。

これまでは人が歩いてたってそんなの関係ねえとばかりに、びゅんびゅん飛ばし、町中で80キロくらいは平気で出してたもんです。

車に乗った時にシートベルトを締めようものなら「そんなのしなくていい!」と余計なお世話なことを言われるし。


それが規制された。

これまでそういう規則がなかったのも信じられないけど、もっと信じられないのはアラシャンの人たちです。

その規則が施行された日にさっそくタクシーが200台ほど捕まったらしく、しかもスピードが遅いと商売にならんって感じでプンプン。


それに抗議してストライキしたらしい・・・


聞いたとき、生まれて初めて「ぎゃふん」と言ってしまいそうになりました。


中国人はシートベルト締めるのなんておかしなことって感じてる節があるし、おまけにめちゃくちゃスピードを出すので、いったん事故を起こすと、きっと死亡率が高いんだろうなあ。


いやあ、日本では絶対にありえないストライキでした。


そんな中国が少し好き。

2009年3月12日木曜日

ただいま

ただいま。

みなさま、お久しブリーフ。

ようやく、ようやく帰ってきました、アラシャンへ。

およそ2か月にわたる任地外の滞在で本当に疲れました。

そしていろんなことがあり過ぎました。

伝えたくても伝えきれないことや人には話せないことまで、様々ありましたが、 これまでの人生の中で一番濃密な時間を過ごした気がします。

特に、この2カ月でたくさんの人に出会い、知り合えたこと、仲良くなれたこと、いろんなものを見て、聞いて、感じたことは大きな財産です。

協力隊員だけでも10人くらいと知り合えたし、 たくさんの仲間ができました。

旅行のことも細かく日記に書こうと思っていたけど、出来事があまりにも、多く、濃すぎて書ききれません。

気が向いたら書こうと思います。


とりあえず行ったところは、フフホト5日、瀋陽4日、ハルビン3日、北京2日、香港1日、フィリピン6日、天津1日、北京35日、保定(河北省)3日、と合計1万㎞ほど。

いったい日本を何往復できる事やら。

北京では1か月ほど滞在して、お金が飛ぶようになくなっていきました。


旅では同期の仲間とともに過ごして、仲間の大切さを感じることもできた。
でもやっぱりお金が飛ぶようになくなっていきました。

久しぶりに帰ってきたらタクシーがストライキしていて走っていませんでした。

洗濯機の脱水槽の中に入れっぱなしになっていた洗濯物はカッチカチになっていました。


カッチカチやで


幸い泥棒には入られていませんでした。


仕事に来たら、テレビ局の人(?)が来ていて、普段は放っておかれているのに校長にここぞとばかりに利用され、いきなり「今からちょっと日本語の授業やって生徒と交流して」と言われた。 でもテレビ局の人が5分くらい撮影したら授業も終わった。撮影のための演出です。

なんじゃそりゃ。

それでも、それが中国の姿、普通のこと。
まあ、活動を紹介してもらえるんなら別にいいんですが。


いつのまにか、もうすぐ春ですね。


でも、今日は雪です。



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2009年2月25日水曜日

長期旅行(瀋陽編)

お久しぶりです。

あんまり更新しないもので、生死を危ぶむ声も起きつつあるため、北京からとりあえず更新します。

いろいろあったフフホトへの旅?を終え、3日間の中休みを経ていよいよ長い旅に出ました。
1月20日

まずは瀋陽(しんよう)。

夕方到着して仲間たちと合流。ここでのメンバーは自分を入れて5人。

同期の仲間だけでなく、今までほとんど話したことのなかった人もいて、何か新鮮。
合流してすぐに食事に行き、火鍋(日本で言う鍋料理。基本的に辛い)を食べながらビールと白酒を飲む。

つぶれる。
周りのみんなの心配と気遣いをよそに翌朝見事に復活し、早朝からスノボにいく。寒い。
ゲレンデの状態はというと・・・・・
角度なし!!!
滑走距離は短いし、傾斜もほとんど無いので、気をつけないと勝手に止まってしまうほど。

リフトは板を脱いで乗らないければならないし、日本ではもう見かけない「つかまるタイプ」がいまだに活躍中。

それでも、ゲレンデは「コワイ、コワイ!!降りられないよう!!」と涙声でわめいてる人や腰を引いて足がぶるぶるしてるスキーヤーたちで溢れてる。

なぜなら、中国の人たちはスキーなんてものをした事がほとんど無いもんだから、「旅行がてら、ちょいとスキーって言うものをやってみようか」という感じできている人たちが多いようだ。
だから、ゲレンデの入場券も基本的にウエアと板、ブーツ、リフトの料金が全部込みこみになっていて、しかも一日券か2時間券しか買えない。
しかも、ゲートを通ってゲレンデに出ると、もう建物に戻って休憩できないという、恐ろしい仕組みになっているのだ。
朝から滑ってお昼ごはんを食べにレストハウスに戻る、なんてことはできない。


だから休憩もめちゃくちゃ寒い中でするし、昼ごはんも-20℃前後の野外で食べなくちゃいけないから大変です。
飲み物なんて、揺らしていないといつの間にか凍ってます。
日本でいうなら、スケートに行くのと同じ感覚でしょうか。
自分の靴もって行く人なんてほとんどいないし、一日中滑っている人もまずいない。

二日後、かなり雪が降り、明日はゲレンデがいい状態になるね、なんて言っていたのですがその日
結局朝6時まで飲み続けてしまい、起きたら昼。
その次の日は、なんと気温が-25℃という恐ろしいことになりました。



ゲレンデに行ったはいいけど、あまりの寒さに3時間ほどで諦め、帰ってきましたとさ。

その後別行動になる仲間を見送るついでに瀋陽の街をぶらぶら。

色々な観光地をみて回るのでした。

さて、次回は氷の街、ハルビンです。

2009年1月18日日曜日

テスト

11月ごろから2年生の国語の授業を子どもたちと一緒に受けさせてもらっていた。

子どもたちも自分をとても慕ってくれるので、生活の中で一番楽しい時間だ。

とてもいい勉強にもなる。会話はもちろん大事だが、教科書で習う言葉は日常会話では使用頻度の低いものもあり、語彙力を高める上でも非常に有意義だ。

昨日、一昨日は期末試験で全校の児童が一斉にテストを受けていた。
1.2年生の国語は1時間半。
3~6年生は2時間。

長い。

その前にも学期末は単元ごとの小テストをやっていたようで、ここしばらくは復習ばかりだった。


そんなある日、国語の授業に行くと、プリントが配られた。その日は小テストをする日だったらしい。てっきり授業をすると思っていたので部屋を出ようとしたら

「榎本先生もテストを受けるの?」と子どもが。

「そうよ。榎本先生もやります。」と担任の先生。

ええっ!聞いていませんけど・・・って思ったが、面白そうなので一緒に受けてみた。


結果。 

88.5点。  微妙・・・・


中国のテストは0.5点があり、日本人にはなんとも不思議な感じがする。
88.5がいいのか悪いのか分からなかったので子どもに聞いてみると、

かなり良いらしい。
何でもクラストップの子の点数が82点だったらしく、ということは・・・


NO,1じゃ~ん!!!(小学2年生の)


先生にもすごく良くできているわと褒められた。(小学2年生のテスト)


これが3年生なら完全にお手上げだったろうけど、突然のテストにてまあまあの成績を収め(小学2年生の)、にやりとした私でした。


やっぱりテストは面白い。勉強になるしね。

フフホト珍道中

ビザを取るため、フフホトに向かうことになったワタクシ。


まずはバスに3時間ほどのって150kmほど離れた乌海(ウーハイ)へ。 が、電車がない。 仕方ないのでネットカフェに入り、9時間過ごす。

電車に乗り、寝台で休む。 日本のそれよりもだいぶ狭いように感じるが、ベッドがあるだけずっとマシ。

夜中、隣のベットのおばちゃんが突然寝言を言って叫びだす。雄叫びに近かった。
ばっちり目が覚めてしまった。ちくしょう・・・

翌朝、フフホトに着くと、凍える。凍てつく。 「凍てつく」なんて言葉、ドラクエ以外で耳にしたことはないが、まさに凍てつくって感じ。どのくらい寒いかって言うと、川の上にスケート屋さんがお店を開けるくらい。

あとで分かったが、あの朝の気温は-20度だった。
とりあえず、役所が開くのを待って科技庁に出かける。


そして、担当者の「早ければ午後にはビザがもらえる。遅ければ、明日かなあ」という言葉を信じ、翌日午後の帰りの切符を買う。


その後余りある時間を費やすために街をぶらぶら。24時間マックを発見!!

どうやら最近できたらしい。ウキウキして店に入ると、店員が一言。
まだ開いてないよ

そして、鍵をかけられる。




・・・・どういうこと ですか?




買い物。

フフホトは安い!!そして北京と同じくらい品物が豊富。素晴らしい。海外ブランドはさすがに若干高いけど、国産品は激安です。

ここぞとばかりに一日中買い物をして、かなり使ってしまった。 でも、ずっと欲しかったものばかりだから悔いはありません。



宿。

その日泊まった宿はすごく安かった(一部屋50元)けど、その分ひどかった。寒いし、汚いし。まさに安かろう悪かろう。

外は冷凍庫、部屋の中は冷蔵庫。結局、布団と毛布を二枚ずつ使って寒さに震えながら浅い眠りで夜を過ごす羽目に。



3日目。

電話が来ないのでこちらからかけると、外事弁の局長が会議で時間が空いてないから明日(つまり4日目)の午後以降に電話くれと言われたらしい。




電車のチケット・・・・・キャンセル決定(涙)



長蛇の列に並び、ようやく自分の番。が、発車間近だったためキャンセルできず。100元も無駄にした。
このお金があれば、もっといいホテルに泊まれたのに・・・・



食事。

その夜、通りがかりに見つけたおしゃれな感じのBarに行く。入ってみると一階はBarだが、二階がバイキングのブッフェになっていて、そこに案内される。

一人だと告げると、「え、一人で来たの?あんた」みたいな顔をされる。知らん顔をしていると店の奥の方の、団体様の隣にある余ったテーブルをおもむろに用意されてここへ座れという。

超目立つ場所。しかも一人。さすがに無理ですよ、それは。


「いや、もういいや」と言って店を去ろうとすると後ろからさっきの店員たちの大笑いが聞こえてくる。

また客を馬鹿にしてる。でもそこはぐっとこらえて、じっと睨みつける。店員と目が合うと気まずそうにしていた。勝った。



ステーキハウス発見。入る。一人でも気にしない。なかなかおしゃれ。メニューに値段が書いてないので、若干あせった。尋ねるとコースで68元だという。まあまあだろう。


注文してしばらくすると来た。前菜とスープとパンが同時に。 どうやら定食をコース料理と聞き間違えたらしい。 しかもどう見ても、サーモンがまだ凍ってる。 溶けるまで待って、サーモンのカルパッチョを食べる。 鼻につんとくるこの懐かしい刺激。



・・・・・あ、あのぅ、・・・これ、ワサビだよね。


なぜカルパッチョがワサビ味 刺身?

肉が来た。食べた。普通にうまいので、なぜか、少しがっかりしてしまった。 ネタにならんじゃないか・・・

一通り食べ終わり、佐野洋子さんの「がんばりません」を読みながら30分ほど待つが、デザートが来ない。


店員に聞くともう全部出したという。そんなバカな。

で、確認するとやっぱり向こうが忘れたらしく、すぐに持ってきた。ヨーグルトプリン。 スプーンを入れるとなぜかシャリッという音。


? まさか  ・・・・また凍ってる?  ていうかこれ、ただのヨーグルトシャーベット。プリンじゃないよ・・・


ちなみに、そこで飲んだビール、300mlで18元でした。普段のは600mlで2.5元なので14倍のお値段。名前はプラチナ青島ビール。


4日目、連絡が来ないので先にホテルを延泊する。その15分後、電話がきて手続きが終わったといわれる。・・・・・また一泊分の100元無駄にした。


ラーメン屋に入る。ジャージャー麺を注文する。同じテーブルのおばちゃんが半分以上食べてから店員に文句をつけ出す。「これ注文したのと違うよね。差額の1元返してよ!」どうやら店員は俺が注文したのをそのおばちゃんに出してしまったらしい。


すると店員、そのおばちゃんが注文したのを代わりに俺に食べろと言いたいらしく、やっぱりジャージャー麺を食べるのかと聞いてくる。


「当たり前だろ。ていうか、おばちゃん、食べる前に聞きなよ、あんた!」


その五分後、店員がまた聞いてくる。



ホントにジャージャー麺食べるの?」



もう、意味が分かりません。




その後、街をうろうろしていると、とある店を発見。麻辣汤(マーラータン)という激辛鍋の店。




これ・・・・・どう見ても、あれですよね(汗)。カーネルさん。


5日目。
朝のバスに乗り、今度は9時間半かけて帰宅。疲れた。



そして、替えの靴下とシャツしか持っていかなかったので、パンツは結局5日間穿き続けでした。



裏返すべきだった??

2009年1月15日木曜日

再入国ビザへの道(完結編)

CPから、もういっそチベットへ行けと言われ、もう諦めようかと思っていた次の日、なんと科技局の人がフフホトまで書類持って行ってくれることに。

なんていい人たちなんだ、中国人。ありがとう。 そして、ほんと申し訳ない。

さらにその後、JICAのスタッフが、またいろんなとこにお願いしたり協力してもらったりしたおかげで、事態は一気に解決に向かう。

 フフホトにある科技庁の偉い人に、外事弁に行って手続きをしてもらえることになったのです。そのため、科技局の人に行ってもらうより自分が行った方が時間的にも作業的にも安心だし、かつ申し訳ない気持ちにならずに済むので、一人で書類を持って行くことに。

さて、前期の最後の日、職員会議が終わると同時に、バスで3時間かけ駅のある街へ。
そこからなんと9時間待ちで電車に乗り、8時間半かけてたどり着いたフフホトでは、

いろいろあって3日待たされた結果、


ようやく再入国ビザを取得することができました。


うぉ~~~~~い!! ビザ、とったど~~~~~ !!!

まあその「いろいろ」の部分は面白いことやら何やらあったんだけど、それはまた今度ということで。

結局、かかった日数5日間。うち、移動がまる2日。

あ~、長い道のりだった・・・・・・


分かったこと。

1 日本の仕事、物事は「システム」で作られているが、中国は「人」で作られている。つまり、すべて相手次第ということ。だから関係が何より大事。システムがないという問題はさておき、人脈の大切さが身にしみた。

2 内モンゴルの隊員は任国外旅行に行ってはいけないということ。 そして、たかがシール一枚のために、今回お世話になった(迷惑かけた)方々、それからこんなに長い文章を読んでくれた人、本当にありがとうございました。そしてごめんなさい。もう二度と任国外旅行に行くなんて言いません。

お土産、買ってきます。

そして、コネを作ろうと思います。

2009年1月10日土曜日

再入国ビザ危機一髪

再入国ビザを取得するため、フフホトへ行こうとしたワタクシは、とりあえずそこの外事弁の担当者に電話して明日行きますと伝えた。

そしたら、前回となんか話が違う。(汗)

また、アラシャン盟の外事弁からの承認が必要だとか他の書類が必要だとか言い出した。
彼女の言ってることが難しくって話がよく聞き取れないので、楊先生(カウンターパートのような人)に代わってもらう。
何やら、またややこしいことになっているらしい。

本人の証明書が必要だと。 向こうでは犯罪行為をしません、とか帰国の日時を守りますとか、なんかあっても全部自分の責任ですとか、そんなことを約束する書類を書かされる。

その後、とりあえず(例の)アラシャン盟の外事弁は役に立たないので、代わりに教育局で承認をもらう。

そしたら次は科学技術局の承認書類が要ると。
これはまあ学校の隣にあるからいいけど、 問題はさらにフフホトの科学技術庁の承認書類がいるってこと。

しかも、外国人である自分が一人で行ってもだめだってことで、だれか中国人が行かないといけないらしい。

さて、困った。 楊先生もさすがに、「どうする?無理だ。あきらめて代わりにチベットにでも行けよ、ダライラマに会ってこい。」と言い出す始末。そりゃあそうだ。

なんせここからフフホトまでは750kmほどある。バスで3時間、さらに電車で8時間の道のり。 たかが自分の旅行のために。

例えるなら、神戸の学校の先生に「すみませんが、ちょいと3日ほどかけて東京に行ってきてもらえませんか?鈍行で。」っていうようなもんだ。

いくらずうずうしくても、それは頼めません。

そして この間ずっと、JICAのスタッフにもいろいろと動いてもらい、調べたり連絡取ってもらったり、なんとかならないかと頼み込んでもらったりもしていた。

が、さすがにJICAも「学校の先生に、この忙しい時期に個人の旅行のためにそこまで要求できないし、今後の活動にも影響するから・・・・ちょっと。」と言葉を濁す。

いい加減、心苦しさと煩わしさにうんざりし、妻とも、「こんなにいろんな人に迷惑かけるくらいなら、もう、行くのやめようか」と話していた。


すると次の日・・・・



疲れたので、結末は次回。


え?誰だ。 話が長いとか言うな

2009年1月8日木曜日

おれがやらなきゃだれがやる?

昔、教師になる前に勉強しながら配管工をやってました。

みなとみらいの、ある施設を作っているときに現場のトイレでこんな落書きをみつけた。

「おれがやらなきゃ だれがやる!!」

そして、「だれが」の「が」に大きく×がつけてあり、「か」と直されている。

「おれがやらなきゃ だれかやる!!」


うまい。


あまりのうまさに感心して、出かけていたものが引っ込んでしまった。

なんともよくできた皮肉。

日本語教師なら授業で問題として使ってみたくなる。
もう9年も前のことなのに、いまでも時々これを思い出す。

世の中、まさにこのとおり。圧倒的に後者が多い。

たとえば小学校。全員がそうであってほしいと願うものの、現実には前者はせいぜい1~2割。一般社会ならもっと少ないかもしれない。
だからこそ教師がいるんだろうけど。教科書の内容だけ教えるなら塾で十分だ。


誰かが拾ってくれるだろう。片付けてくれるだろう、ごみを。
誰かが注意してくれれうだろう、あの子に。
誰かが変えてくれるだろう。

何を?クラスを?学校を?社会の仕組みを?自分を?

いや、きっと変わらない。それもきっと分かってる。

変えるのは「自分」。「だれか」に期待せず、「おれが」やる。

とはいえ、一人で変えるってやっぱり大変。結果的にはできないことも多い。


自分もしょっちゅう他人や環境のせいにしたり、環境に甘えたりするので反省する。それを繰り返している、進歩のない人。


一方、青年海外協力隊に参加している人の多くは「だれがやる」的考えの人だろう。それってものすごいことだと思う。そんな集団のすみっこに加わっていることを誇りにも思う。

でも、そんなに意気込まなくてもいいのかもしれない。心に秘めてさえいれば、とも思う。


まもなく協力隊の18年度2次隊が帰国し、20年度4次隊が日本で訓練を始める。
満足いく活動をできた人はどれだけいただろうか。満足いく活動をできる人はどれだけいるだろうか。
一人では変えられないような「何か」を変える力。 すぐには変わらない「何か」を変える活動。

それでも、幾人もの人が何代にも渡って糸をつむぎ合わせるようにして作っている活動。
それが青年海外協力隊。

すごいと思う。

自分に出来ることを精一杯やり、「おれがやれなきゃ だれかやるさ」 と、前向きに「誰か」に託していく。

すごいと思う。


2009年1月7日水曜日

再入国ビザ物語

1月末にフィリピンに行く予定です。
中国に戻る時に再入国ビザが必要なのでその手続きをすることに。

はじめに警察へ行くと(町には外国人がほとんどいないから)案の定どうしたらいいかよくわからないらしく、アラシャン政府の外事办公室に行くようにと言われる。

日本でいう市庁舎みたいなところの、ある部署です。
ちなみに、外事办公室(がいじばんごんし)というのは、外国人の接待などの対応をする部門、つまり対外関係の処理を行う場所です。

その場所へ友人について来てもらっていくと、そこの担当者の女が友人に言った。 モンゴル語なのでよく分からなかったがこう言ったらしい。

「なんで外国人なんて連れてくるのよ!!私は関係ないわ!」

警察で言われたから行っただけなのに、叱られた。

その後担当者は中国語で言う。 「私は中国人民の外事事務員(←こいつ主任)だ。外国人のための事務員じゃない。だからできない。分かる?」


「ああなるほど、って・・・分かるかぁあああ!!」と内心思ったけどそれは言わず、できる限り大人の対応をする。

「じゃあなんで外事っていうのさ。これがあなたの仕事でしょ。」

その人もめげません。

「私は関係ない」

繰り返しますが、外事办公室(がいじばんごんし)というのは、外国人の接待などの対応をする部門、つまり対外関係の処理を行う場所です。


友人「じゃあ、フフホト(内モンゴル自治区の首都)の外事事務所に電話して聞いてみてください。」

女「いや。私は電話しない。」

繰り返しますが、外事办公室というのは・・・・・・


友人、帰り道超激怒。そりゃそうだ。

翌日、JICAに連絡。調整員も苦笑。

今度はJICA経由でフフホトの外事办公室(上級の組織)に連絡を取り、手続きの方法を調べてもらう。

学校で書類を作って、例の事務所から承認の書類をもらって持ってくるようにとのこと。

アラシャンの事務員に分からないことがあったら、そいつにフフホトに電話させてとの根回しもした。 でもいやな予感。


CPが書類を持って行く。


帰ってくる。


CP怒ってる。



CP「ダメだ。そんなのやらないって言われた。」

俺「フフホトに電話すればいいって話は?」

CP「『私は電話しない』って。」

俺「やっぱりね。あの人は何も仕事しないんだよ。ほんと腹立つわ。」

CP「あれはだめだな。俺もあいつ嫌い。もう会いたくない。」

俺「ごもっとも。」

その後、フフホトに電話し事情を説明すると、まずパスポートのコピーをファックスで送って、書類持って直接来いとのこと。

さて、735KM離れたフフホトへ一人で行くのでいったいどうなる事やら。 たどりつけるか、そして仕事してくれるか。フィリピンへは行けるのでしょうか。

不安です。

物語の結末に乞うご期待。

再入国ビザ物語

2009年1月2日金曜日

浮かれポンチじゃいられない

12月31日。

予定通り忘年会をばっくれ・・・あ、失礼、遠慮させていただき、浮かれ気分で日本人仲間の待つ銀川(ぎんせん)、Tさん宅へ。

留学生2人と江西省と銀川の協力隊員、そして自分の6人にて、日本人の大みそかを過ごす。
夜食にはTさんが作ってくれた年越し蕎麦を食す。



そばが日本のものじゃなかったのが残念だけど、でも気分は年越し。おいしくいただきました。そして日本のお菓子やおつまみ、ケーキ(中国の)などを持ち寄り、盛大に年越しパーティー。

その晩はなぜかものすごく眠くって、我慢できず1時には解散。先輩隊員宅に移動して宿泊。


1月1日

元日の昼前再びTさん宅へ行く。
持ってきたお餅とゆずを使って皆様に榎本家風のお雑煮をふるまう。

味の方は、まあまあ75点くらいでしょうか。三つ葉がほしかったけど、ないので我慢。

中国で日本風正月を過ごせただけでも素晴らしいことです。
あ、ちなみに中国の新年は爆竹や花火をちょっと鳴らすくらいで特に何もお祝いをしません。むしろ春節に向けて大掃除をします。

と、ここでえらいことが。なんと泊めていただいている隊員があと5日で帰国するため、大学の日本語課の学生たちにカレーを作ってあげるよと約束してしまったらしい。

ちなみに、彼は何一つ料理ができません。二年間で一度も料理をしなかった男。
そして、お客さんの人数は35人

まじか!?

料理を作れない人はその人数の重みを全く分かっていません。ガスコンロや鍋の数を考えたら時間が相当かかることは確実。
でも、まさかカレーだけ出すってわけにもいかないので、いろいろ考えた結果、
カレー、肉じゃが、おしるこ で行くことに。これなら材料の種類も少なくて済むし。

そんなわけで午後は買出し。
元日午後4時からカレー作り開始。言いだしっぺ本人を除く4人で作業開始。
7時半、カレー完了。

夕飯を食べに行き、10時帰宅、だしがなかったので、手順を無視してとりあえず肉じゃがの材料だけ煮て、12時就寝。


1月2日

翌朝6時半、一晩水につけといた小豆を煮ておしるこ作り。
8時半、おしるこ完成、いったん冷まして味をしみこます。

部屋の掃除と部屋のセッティング。

午前10時、Tさんら女性陣がダシなどをもって到着。
肉じゃがづくり再開。

11時半すべて終了。

時間通り。間に合った。

日本人チームの協力により、無事準備されたこの会でしたが、人のよい彼のためにみんな頑張りました。これも彼の人徳です。

さて、肝心の味の評価はというと、

カレーはまあまあだったのか、ある程度食べてくれていました。

肉じゃが、それなり・・・

おしるこ、大盛況にして即完食。

中国人の好みは日本人のそれとは違うのでこの辺は仕方ない。
なにせ彼らは感情表現がものすご~いストレートで裏表がありません。
だから自分の口に合わないと思ったらたとえどんなに相手が手間暇かけて用意してくれていようとほとんど箸をつけない。超正直。だから残り物の量がそのまま好みの目安になる。

まあ仕方ないね。

その後、ピザ屋へ行き、思う存分リラックス。

そんなこんなのすさまじい正月でしたが、そうとう充実した正月でありました。


みんなも、人を招待する時は計画的にね。ああ疲れたよう・・・